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京都の北東、若狭へ抜ける道の奥深くに大原の里があります。四方をなだらかな山に囲まれた盆地である大原は、
のどかな山里といった雰囲気です。子供の頃見た、茅葺き屋根の家とコスモスが咲いている光景が懐かしく行ってみました。

 

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kosumo05.JPG 茅葺き屋根の家は、もうここ1軒だけだそうです。
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聖徳太子が推古2年(594)に用明天皇の菩提を弔うために創建されたものですが、平家物語の悲劇のヒロイン、建礼門院が余生を送ったところとして有名な尼寺です。壇の浦の合戦で平家はことごとく滅び、建礼門院は幼い安徳天皇を抱いて入水しましたが、一人源氏に助けられます。その後、都に戻った建礼門院は寂光院のそばに庵を建てて閑居の日々を送るようになり、わが子・安徳天皇と平家一門の冥福をひたすら祈ったといわれています。そんな建礼門院を哀れんで後白河法皇がここを訪れたといわれていますが、それが謡曲で有名な「大原御幸」です。

建礼門院は平清盛の娘で、16歳のときに平家の権力を背景に高倉天皇の皇后となり、22歳でのちに安徳天皇となる子を生みました。しかし「盛者必衰」と平家物語が謡うとおり、壇ノ浦の戦いで破れ、平家一族は、おさな子の安徳天皇も含めてもろともに海に沈んだ。自らも海へ身を投げた建礼門院でしたが、源義経に助けられて一人生き残りました。 その後、建礼門院は円山公園近くの長楽寺に入り、出家ししました。その折、わが子、安徳天皇の御衣で作った幡が残っているそうです。彼女は寂光院でひっそりと人目を忍びつつ、平家一族の冥福をひたすら祈りながら毎日を過ごし、建久2年(1191)に36歳でその波瀾の生涯を閉じるまで、ついに再び歴史の表舞台に登場することはなかったのです。

 

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昨年2000年5月9日午前2時35分、放火により本堂付近から出火、木造こけらぶき平屋約八十二平方mを全焼。
本尊の「木造地蔵菩薩立像」と「建礼門院座像」「阿波ノ内侍張り子座像」も焼損した
未だに、犯人はみつかっていないそうです
仮りの本堂が建てられていて、とても哀れな姿でした
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池のほとりの秋海どう(しゅうかいどう)が、大原の里にはあらゆるところで咲いていました

 

 

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寺の起源は 延暦7年(788)、最澄が比叡山延暦寺の東塔の梨の大樹の下に一宇を建てたことによる。洛中を経て、応仁の乱の後にここ大原に移転した。天台宗の5門跡のうちのひとつ。木立に包まれた本堂・往生極楽院は、久安4年(1148)頃の建立。 この他、豊臣秀吉の建立と伝えられる客殿や房殿などがある。 苔に覆われ、杉や楓が美しい有清園、聚碧園と呼ぶ2つの庭園も見事である。
三千院を素通りして、どんつきにある勝林院を通って、宝泉院へ行きました




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oohara11.JPG 宝泉院は、声明道場として開かれた勝林院の塔頭で、平安末期に創建された。書院の廊下の天井は「血天井」として知られている。伏見城が落城したときの廊下板を天井に使用してあり、人間の顔や指などの形の染みが残っている。
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樹齢700年の五葉松があります



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樹齢700年の五葉松の根元です
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客殿西の庭は、障子を取り払った柱と柱の間から鑑賞するもので、「額縁庭園」の名で知られています。
全面の枯山水とその奥の竹林とその間から見える美しい山並みの背景は、見事に美しかったです
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「水琴窟」とは、
水滴音を瓶の共鳴音として楽しむ排水装置で、江戸時代の庭師が考案したと言われ、日本庭園のおける最高技法の一つとされています。

宝泉院の水琴窟は、「理知不二水琴窟」と名づけられ、2つの異なった瓶から出て来る音の重なりで、「理性」と知性」が一つに交わる「合一の宇宙」を表現しているそうです。
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この筒に耳をあてて、聞かせて頂きました
そりゃあもう神秘的な澄んだ綺麗な音に感激してしまいました
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