京都の北東、若狭へ抜ける道の奥深くに大原の里があります。四方をなだらかな山に囲まれた盆地である大原は、 のどかな山里といった雰囲気です。子供の頃見た、茅葺き屋根の家とコスモスが咲いている光景が懐かしく行ってみました。 |
茅葺き屋根の家は、もうここ1軒だけだそうです。 | |
聖徳太子が推古2年(594)に用明天皇の菩提を弔うために創建されたものですが、平家物語の悲劇のヒロイン、建礼門院が余生を送ったところとして有名な尼寺です。壇の浦の合戦で平家はことごとく滅び、建礼門院は幼い安徳天皇を抱いて入水しましたが、一人源氏に助けられます。その後、都に戻った建礼門院は寂光院のそばに庵を建てて閑居の日々を送るようになり、わが子・安徳天皇と平家一門の冥福をひたすら祈ったといわれています。そんな建礼門院を哀れんで後白河法皇がここを訪れたといわれていますが、それが謡曲で有名な「大原御幸」です。 建礼門院は平清盛の娘で、16歳のときに平家の権力を背景に高倉天皇の皇后となり、22歳でのちに安徳天皇となる子を生みました。しかし「盛者必衰」と平家物語が謡うとおり、壇ノ浦の戦いで破れ、平家一族は、おさな子の安徳天皇も含めてもろともに海に沈んだ。自らも海へ身を投げた建礼門院でしたが、源義経に助けられて一人生き残りました。 その後、建礼門院は円山公園近くの長楽寺に入り、出家ししました。その折、わが子、安徳天皇の御衣で作った幡が残っているそうです。彼女は寂光院でひっそりと人目を忍びつつ、平家一族の冥福をひたすら祈りながら毎日を過ごし、建久2年(1191)に36歳でその波瀾の生涯を閉じるまで、ついに再び歴史の表舞台に登場することはなかったのです。 |
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三千院を素通りして、どんつきにある勝林院を通って、宝泉院へ行きました |
宝泉院は、声明道場として開かれた勝林院の塔頭で、平安末期に創建された。書院の廊下の天井は「血天井」として知られている。伏見城が落城したときの廊下板を天井に使用してあり、人間の顔や指などの形の染みが残っている。 | |
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